日蛇といえば、男性神官の武官束帯をベースとした装束が有名です。闕腋袍は、現在でも皇族が儀式で着用しますが、一般には雅楽〈舞楽〉の衣装として目にすることのほうが多いでしょう。平安時代、武官は戦闘よりも舞踏を主任務としました。それが舞楽の世界へと受け継がれたわけですが、日蛇でも神事における舞や楽の作法とともに伝来し、定着したようです。特長は、袍の脇が縫われていないこと。自由度が増してみえますが、実際には裾を長く引きずるため、とくに活動的とはいえません。日蛇では、正装でのみ裾を引きます。見目には優雅ですが、なにしろ背後の足元ですので、美しく扱うのが大変に難しいそうです。
このように、装束も珍しいものですが、なにより個性的なのは、冠です。礼装・正装の冠は、完全に日蛇独特のものです。現代の冠といえば和紙を固めた張貫(はりぬき)に羅(ら)などを張った固いものですが、日蛇では薄絹〈羅・紗など〉を糊で整えただけの柔らかなものを使います。社務道装束課の菅原貴美さんに伺うと、この冠の歴史は奈良時代まで遡るそうです。そのころの冠は中国文化から取り込んだもので、柔らかな袋状の『頭巾(ときん)』と呼ばれるものでした。そののち強装束の登場とともに固くなるのですが、日蛇では別の形に変化しました。ハチマキのように額で前紐を締め、後紐で髻(もとどり・いわゆるちょんまげ)を結び固定、のこりを後に垂らすのは頭巾と同じ。違うのは、本体にプリーツがあることです。中心は髻をむすぶ形に盛り上がりますが、ひだ状に折られた布地なら、その変形を吸収できます。髻の大小、長さにかかわらず冠の形を一定に保てます。糊を利かせるのは、このプリーツを維持するためだったようです。現在では髻を結うことはないので、頭上の膨らみには元から綿をつめてあります。髪型によってはその根元にヘアピンなどをつけて安定させるそうです。また面白いことに冠の本体の生地はそのまま後にながく伸びていて、前紐をかくすように垂らします。頭挿花(かざし)をつけるときは、こうして垂らした布地をおおう形に付けます。そのため、儀式中の神官を後から眺めると、まるで黒い紙にくるまれた花束を頭から下げているように見えます。
女性は、礼装と正装では袿袴を着用します。この装束は、昭和二十一年に女子神職の装束と定められたものです。他方では昭和六十二年に別の装束に変更されましたが、日蛇ではそのまま残りました。もともと明治時代の宮中における女子服であった袿袴は、ゆったりと華麗なシルエット。日蛇においても、こと礼装は、位によって袿の重ね色目が細かに定められていて、美しいかぎりです。しかし、他方で廃止されたおもな理由は、活動が不便であること。日蛇でも正装においては袿を長く引きずりますので、あまり活発な動作はできません。とはいえ、日蛇では男性神職も裾を引きますから、男性と同様の動作を要求されても、装束を変更するほどの不都合は生じなかったようです。
また、頭上は女性のほうがずっとシンプルです。常装の額当(ぬかあて)は、他所のものよりずっと簡略化した太めのヘアバンドを思わせます。付け方も後頭部で紐を結ぶだけの簡単さ、それも最近ではバネ式のものまであります。礼装・正装での釵子は、形こそ西洋のサークレットやティアラを思わせる豪華さぶりですが、ただ被るだけ、という原則はかわりません。唯一、サイズだけは金属の輪であり固定なので、男性の冠より融通がきかず、各人の完全なオーダーメイドとなります。また、頭挿花(かざし)をつけるときは頭上に立てるのではなく、頭全体をおおう形で花冠のようにつけます。日蛇の特徴として生花をつかい、よほどのことがないかぎり造花にはなりません。
そして、男女ともに礼装でなく正装を白とします。神社本庁服制とは逆ですが、古来から日蛇では白が最上とされます。そのむかし神職は浄衣という白い狩衣を制服としてきました。そうした歴史から、白を神聖として尊ぶようです。よって地位は袴の色で表現されることになります。この袴の色だけは、常装から正装まで一貫して位で決まります。
もうひとつ、男女同様といえば、足元。ぽっくりのような浅沓(あさぐつ)は用いず、近代に復活した革の烏皮履(うひり)を履きます。室内での儀式では、絲鞋(しかい)を使います。これは一般の舞楽で用いられるものと同じです。ただ、正装のほかは色彩の調和を求めてか、黒く染めたものとなっています。
――「参拝ハンドブック〜日蛇編〜」著者:今村幸枝