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無断転載禁止。Reproduction Prohibited.
注:ここに記載された内容は、空亡著である小説『欲望の守護神』のための設定資料です。
すべてはフィクションであり、実在の個人・団体等にはいっさい関係ありません。


宗教形態の特長
 現存する神を核とすることで、伝記・歴史という魅力ある情報に頼らずとも団結力を維持できる、世界でも希有な宗教形態を成す。それゆえ周辺事情・時代環境への柔軟な順応力をもつ。また、権力の統治者(榊茂・宰神司)の認識が、理念のみならず実体に『神の代行者』に留まり『神そのもの』に成りえないため、我欲へと走りづらい。結果として慎みや達観が育ち、集中する権力の怖さや脆さを体感できる者が地位を占めやすい、といった利点を有す。

教義の特長(注・現在の解釈による)
 あらゆる欲望(欲求・願望)を本能(魂)と定義し、悪としない。消去でなく、制御を最終目的とする。制御ならぬ時、はじめて欲望は悪しき変化をとげる。ときに個人の域を外れ、多くの命を巻き込む惨事となり、天罰を呼ぶとされる。
 神官は、武術・舞踏・楽などの修行をつむことにより、人としての限界をこえ無我の境地を体現し、自らの欲求と対峙する力を得、制御の理を知るとされる。こと武術はもっとも能率がよい修行とされ、神修まではすべての神官に義務づけられている。
 >死後の概念
宰神司以上→神への昇華。
斎司以下(信者ふくむ)→神への還元。
その他(精進の怠慢をふくむ)→再び生命体(生物全般が等価)として生まれ、みずからの制御を学ぶ。

 >葬儀
 宰神司以上→祭として本殿で行う。
 斎司以下(信者ふくむ)→一般の催事場、あるいは各家にて行う。
 ※出典
 神葬祭、つまり神道における葬儀は、穢れだ。通常なら、神社では執り行われない。しかしそれは、死者が人であればこその定義だ。日蛇では、宰神司を超えた者は、すでに神域にある“生きた御神体”である。彼らが肉体から解かれ、より高次元へと昇華するのに“葬儀”はいらない。名こそ同じでも、実質は神事だ。ゆえに本殿で行われる。遺骨は神座へと祀られ、その魂魄は神となる。(2-1)

 >神事にて名のある神は三神。
 創顕神(つくりあらわしのかみ)=媒介者
 奪魂神(うばいしみたまのかみ)=神
 守幽神(まもりかくりしのかみ)=榊茂
  ほとんどの神事・祭事は、彼らを讃え敬い崇めるためにつくられたもの。

 >神は全能とされる。
 ゆえに神官はみな、自らのうちに信仰という監視の目をもつ。それがしばしば信者の間で“正直は美徳”らしき誤解をされ、「人を騙すと神罰がくだる」「自分を欺くとバチがあたる」「隠しごとは神様がご存知だ」などという間違った教義として吹聴されることがある。正しくは「神様に恥じぬ行いをすること」であり、「自らの果てない欲求と向き合う目(能力)を養う」である。
 >婚姻・性交
 太古から罪とせず、資格の制限ともしない。また、結婚相手(地位・信仰)を限定しない。

 >地位の世襲
 しない。社家は存在するが、地位は個人限りのもの。

 >自殺
 罪としない。ただし、責任を果たさずに死を選ぶことは罪とされる。