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無断転載禁止。Reproduction Prohibited.
注:ここに記載された内容は、空亡著である小説『欲望の守護神』のための設定資料です。
すべてはフィクションであり、実在の個人・団体等にはいっさい関係ありません。


神話
 神話といえば先日、民間伝承を調べている友人から、こんな話をきいた。東北の山奥にある古寺をたずねたら、そこの石碑に日蛇らしき痕跡を発見した、というのである。古寺といっても、民族資料館も兼ねているような小さなところで、石碑はとうに倒されて納屋に入れられていたらしい。記されているのは神話というより土地に伝わる古い民話で、白蛇の化身である子供が大ネズミを退治して岩壁をうごかし田畑まで水を通した、という単純な内容である。だが友人がいうには、この白蛇が『ヒノヘビ』という名で記されている、というのだ。
 これを聞かされた時の私の心境は、そんなバカな、というものだった。なにしろ場所が場所である。しかも彫られた年代が天平〈奈良時代〉だというのだから話にならない。「いくらなんでも、結びつけるには無理がありすぎる。白蛇の伝承などどこにでもあるし、『ヒ』が『日』であったとしても、太陽信仰と白蛇信仰が縁遠いものだとはけして言えない。だいいち石碑では正確な古さが測定できないし、正しい年代を彫りつけたとも限らないじゃないか――」。それで私は、そう一蹴した。そもそもそんな史実はないが、たとえば奈良時代にすでに日蛇が存在していて、熱心な布教師がいたとしよう。だが、人々に教えを広めるのが目的であるのに、さして成果のあがらなさそうな山奥まで、道無き道をつきすすんで行くだろうか? しかもその過程で通る道筋には、なんの痕跡も残さずに? 考えるまでもない、そう思えたからだ。
 しかし後日、その心境は変化しはじめた。なぜなら社務道広報課の課長である神官、萩谷孝さんとお会いした折りにこの話を披露したところ、彼が笑わなかったからだ。「そういうこともあるかもしれません」。萩谷さんは真面目な顔でそう言うと、その理由をこう述べた。「我々が信仰しているのは、まぎれもない神様です。人間の行動原理では計れませんし、計ってはなりません。その御力もまた、計り知れないものです。もちろん現時点では、その痕跡が真実だと断言することも、本物でないと保証することもできません。なにしろこの先、その石碑が意外なところで役立つ日がこないとも限りませんから」――なるほど、人でなく万能の神様ならば、遠い山道もさしたる障害とはいえないかもしれない。子供のなりで岩壁を動かし、水をひくのもたやすいことなのだろう。そればかりか遥か未来への布石のために、わざわざ石碑を残したのかもしれない――彼の言っていることは、つまりそういうことである。
 そこで改めて私は、これが信仰というものなのだと思い知らされた。超自然現象を神とするならば、どんな可能性も否とはいえない。どれだけ不透明で非合理的であれ、その偉大さを心から信じることが、信仰という形であり、力なのである。
 だが、私は学者である。きちんとした科学的根拠、せめて文献や様式といった史学の力を借りなければ、信じることはおろか、納得することさえ、とうてい無理な相談である。だからそのうち、例の『ヒノヘビ』を調べにいってやろうと思っている。もしきちんとした根拠が発見されたら、その時こそ私にとって、神様を信じるべき時なのである。

――「日蛇〜祭の歴史を紐解く〜」著者:今村忠彦

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